亀ノ尾の里資料館案内

20170331日 更新

亀ノ尾の里資料館ロゴ (余目第四公民館併設)

亀ノ尾の里資料館住所

亀ノ尾の里資料館

阿部亀治をはじめとする、7人の水稲育種家の功績や、昔の農具・民具などを中心に展示しています。

時    間:9時00分から21時00分
休館日:12月29日から1月3日 その他、展示替え休館(不定期)
料    金: 無料

亀ノ尾の里資料館案内マップ

収蔵している資料の内容

近代農業に関する有形民俗文化財を中心に1,900点以上の資料を収蔵。常設展示は「コシヒカリ」や「つや姫」などのおいしいお米のルーツ「亀ノ尾」を創選した阿部亀治の資料を中心に、米の品種改良に情熱を掛けた6名の水稲民間育種家の功績や乾田馬耕、彦作堰計画絵図等の農業改良史並びに機械化以前の農作業を油彩画で紹介し、関連ある農耕民俗資料を季節ごとに展示している。

亀ノ尾の里資料館01
亀ノ尾の里資料館02
亀ノ尾の里資料館03
亀ノ尾の里資料館04

庄内町の水稲民間育種家

明治維新以来、庄内地方では民間育種家が活発に水稲の新品種創選に取り組んでおり、その成果は全国的にも目を見張るものがあります。庄内町には、「阿部亀治」をはじめ7名の育種家がいます。
今日のように農業機械や肥料、栽培法も発達していない当時としては、米作の収量を左右したのは天候と品種の改良の善しあしでした。そこで、人為的に替えることの可能な品種の改良に目が向けられたのです。こうした背景のもと、この地域の篤農家が品種改良を重ね、数々の優良品種を世に送り出したのです。現在の銘柄米の先祖をたどれば、どれも庄内民間育種家の手による品種に行き着くはずです。


阿部治郎兵衛

阿部 治郎兵衛(あべ じろべえ)
水稲「大野早生(おおのわせ)」を創選。現在の庄内町大野出身。
1870年(明治3年)8月、25歳の時、「勘兵衛」の中から優れた稲穂を抜き取り改良を重ね、水害に強い「大野早生」を創り出した。
また、彼は金魚養殖を農家の副業にしたいと考え、孫までの3代にわたりその改良普及に努めた結果、約50年後に「庄内金」が作出された。別名「振り袖金魚」といわれ、尾ヒレが非常に長くて優雅に泳ぎ、寒さに強い。現在は、庄内町西袋の養魚場で庄内金の保存が図られている。


檜山 幸吉(ひやま こうきち)
水稲「豊国(とよくに)」を創選。現在の庄内町京島出身。
1903年(明治36年)、自分の田の「文六」の中から変わった稲穂を抜き取り、これを改良し「豊国」を創り出した。重要品種のひとつで、大粒で食味が良かったので東北一帯に広く栽培された。特にそのワラは、長稈(ちょうかん)で節間が長く漂白がきくため、「亀ノ尾」にとって代わり草履表の原料として山形県西村山郡では昭和30年頃まで栽培された。


大沼作兵衛

大沼 作兵衛(おおぬま さくべえ)
水稲「大野一号(おおのいちごう)から四号」「出羽錦(でわにしき)」を創選。現在の庄内町大野出身。
自然交配の中から稲熱病に強い良穂の固定を試みて、1909年(明治42年)までに「大野一号から四号」を創り出した。翌年には「出羽錦」を創りだしたが、いずれも米質良好多収であった。
また、乾田馬耕・農事改良事業にも活躍した。


阿部 萬治(あべ まんじ)
水稲「萬国(まんごく)」を創選。現在の庄内町沢新田出身。
1907年(明治40年)、自分の田の「石臼」の中から変わった稲穂を抜き取り、23歳にして「萬国」を創り出した。昔、米の収量は「石(1石は150キログラム)」で数えていたので、多くの収量があるようにとの願望を込めて命名されたものだろう。


土屋仁助

土屋 仁助(つちや にすけ)
水稲「堀野錦(ほりのにしき)」を創選。現在の庄内町南興屋に生まれ、明治末に同町中堀野の土屋家の婿養子となる。
1935年(昭和10年)頃、米質良好の「堀野錦」や「堀野二号」などを創った。
昭和初期に「実行組合」という新しい農業組織を率先して創りだして、各集落に範を示した。


森屋 正助(もりや しょうすけ)
水稲「森多早生(もりたわせ)」を創選。現在の庄内町廿六木出身。
1913年(大正2年)に22歳であった正助は、「東郷二号」の変種を選抜して育成し「森多早生」を創り出した。この品種は、多肥栽培に能力を発揮し、高蛋白の遺伝子を持つ米であり、後にササニシキ・コシヒカリ・はえぬき等の銘柄米の創出にも交配母として用いられた。

「美味しいお米」の歴史

「美味しいお米」の一大産地「庄内町」は、山形県の北西部にあり、米どころ庄内平野の南東部から中央にかけて位置しています。霊峰月山の頂を有し、月山を源とする清流立谷沢川と日本三大急流の一つ最上川に沿う、南北に長い地形です。
庄内町では古くから、余目南部地域は旧河道からできた池沼の水を利用して農業が営まれていましたが、江戸初期までの狩川・余目地区は狐狸の住み着く荒れた土地で、最上川・京田川からの直接引水は不可能な地形でした。
しかし、1612年(慶長17年)、山形城主・最上義光(もがみ よしあき)の命により、狩川城主としてこの地を任された、北楯大学助利長「新堰(北楯大堰)」を清川地区から開削します。そして、その流域に続々と村落ができ、現在の庄内平野中央部水田(新田)地帯が形成されました。

北楯大学利長公の銅像
(狩川楯山公園内)

現在の北楯大堰

江戸期に入って、その支配は庄内藩領・松山藩領と幕府領の旧余目酒井領・旧丸岡領と変遷しましたが、水稲栽培を根幹とする農業形態はより確かなものとなり、農民の農業にかける気概もこの時代に培われました。
明治維新を経て「田畑永代売買解禁」など農業に対する国の規制が取り除かれて、農民の生産意欲は一層高まり、折から導入された洋式農法も吸収しながら、官民一体の農事改良事業への取り組みが行われ、乾田馬耕・土地改良・水稲の民間育種などが定着しました。
1910年(明治43年)には、ようやく陸所(おかどころ)と呼ばれていた余目北部畑作地帯に「吉田堰」が開削され、畑地が水田に生まれ変わりました。
栄養豊富な堆積土と豊かな水利、夏季の高温と長い日照時間、台風が直接来襲することがほとんどないという地勢・気候の好条件は、米作りに最適だったのです。加えて、品種改良への情熱と農事改良などの努力が積み重ねられ、今日の「美味しいお米」主産地形成の基礎が形作られたのです。

それ行け亀ノ尾

4コマ

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庄内町余目第四公民館・亀ノ尾の里資料館
〒999-7727 庄内町南野字十八軒21-1
電話 0234-44-2162