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内藤秀因略歴

生い立ちと青年時代

明治23(1890)年12月19日、大和村古関(現庄内町古関)玄通寺の二男として生まれる。
大正2(1913)年山形県師範学校本科第一部卒業。22歳で飽海郡高瀬尋常高等小学校(のちの遊佐町立高瀬小学校)の教師となるが、画家の道を諦めきれず、25歳で上京、東京美術学校(現東京藝術大学)に入学する。しかし、程なく中退し、東京で教師としてつとめるかたわら画家の石井柏亭、石川寅治に師事し、絵を学び続ける。大正15(1926)年、日本水彩画会第十三回展に初入選する。

欧州留学

昭和2(1927)年、37歳のときに美術および美術教育を研究するためヨーロッパに留学する。
翌昭和3(1928)年パリに渡り、洋画家・小山敬三に紹介されたアカデミー・スカンジナビアや、アカデミー・ドゥ・ラ・グランド・ショミエールに通い、オトン・フリエスから指導を受ける。留学中、フランスの美術展サロン・ドートンヌに《L'hiver de Constantinople(コンスタンティノープルの冬)》を出品して入選。
また、昭和4(1929)年には駐仏大使の安達峰一郎(現山辺町出身)に紹介されたアマン・ジャンから推薦を受け、サロン・デ・チュイルリーに出品する。
このほか、ルーブル美術館の絵画、コロー、ルーベンス、ピサネロ、ベラスケス等の作品を模写し、技法を学ぶ。その後、パリからイギリス、ベルギー、オランダ、ドイツに渡り、各地の美術研究を行って帰国する。
 
画壇での活躍と晩年

欧州からの帰国後、日本水彩画会会員となり、意欲的に制作に取り組む。

1929年秋より日本体育会荏原中学校(現日本体育大学荏原高等学校)で教鞭を取りながら、1930年春からは東京科学博物館(現国立科学博物館)の嘱託職員を兼務(1946年まで)。東京科学博物館では、16面の壁画や歴代館長の肖像画、標本画などの自然科学に関する絵画を制作する。

このころより、二科会、一水会、日展等の公募展に連続出品・連続入選を続ける。

昭和21(1946)年、東京都立浅草高等女学校(のちの東京都立台東商業高等学校)で教鞭を取る。翌年より、日本水彩画会の改構に参加。のちに委員を務める。

昭和27(1952)年、示現会の会員となる。のちに同会委員を務める。

昭和34(1959)年に開催された日英交歓美術展に《桜花の道》を出品。英国王立水彩画協会会員および内藤を含む日本水彩画会会員の作品が、7月に東京、10月から11月にロンドンで展示される。

昭和39(1964)年、教員を退職し、再度ヨーロッパ各地に渡り美術研修旅行を、昭和54(1979)年にはギリシャに渡りエーゲ海やアテネの遺跡の研修をするなど、年齢を重ねても意欲的に美術の研究や制作を続ける。

昭和54(1979)年、日本水彩画会の理事長に理事長に就任し、後進の指導や画壇の振興に力を尽くす。12月には、兄の内藤智秀(ないとうちしゅう)とともに名誉町民の称号が贈られる。
昭和57(1982)年には余目町総合体育館(現庄内町総合体育館)のステージの緞帳原画を制作する。
昭和60(1985)年、春の叙勲で木杯を受ける。
昭和61(1986)年7月、日本水彩画会理事長を辞任。
昭和62(1987)年4月10日東京にて天寿を全うする。享年96歳。5月に遺族より日本水彩画会へ「内藤賞設定基金」が寄付される。また、氏の遺言により同年12月に約2000点の作品が町に寄贈される。


緞帳の原画(庄内町総合体育館 所蔵)


内藤秀因水彩画記念館(旧余目町絵画収蔵館)の設立

作品は当初町立図書館で保存されていたが、資料保存の適正化を図り「余目町絵画収蔵館」を図書館に併設、平成4(1992)年完成。年4回の展示替を通し、作品の公開を開始する。


平成17(2005)年、余目町と立川町の合併による庄内町の誕生に伴い、館名を「庄内町内藤秀因水彩画記念館」と改める。

平成20(2008)年、日仏交流150周年記念として作品35点がフランスのストラスブールとパリで招待展示される。
 


画風・制作への姿勢

内藤秀因の作品は、堅実な写実主義を基調とした、重厚で迫力のある画風である。
絵に対しては古武士のような厳しい信念と若々しい情熱と気迫を持ち、トレードマークのハンチング帽をかぶり、日本国中をイーゼルと絵の具を持って歩いた。
また、家でも旅行先でも立ったまま描き続け、その姿勢は90歳を過ぎても変わることがなかった。

内藤秀因水彩画記念館